「世界中を旅する教育者」を目指すクマのブログ

大好きな教育を多角的な視野で俯瞰し、日々関心を持ったことをブログにあげていきます。

日本語教育はどこへ向かうのか(中編)〜「移民」に着目して考える〜

2ヶ月以上ぶりの更新となりました。

これは後半に向けての前置きになります。

 

この数ヶ月、日本語教育と移民について色んな角度から学んできました。

 

そして私は移民問題を深堀する度に、その問題が「日本の将来にとってどれだけ大きな問題であるか」を痛感しています。

 

新型コロナウイルスの影響が現実的に表面化してきているこの頃。

 

主に「外国人技能実習生問題」にフォーカスすることで、これから本当に日本は外国人に憧れられる国になるのか、それともこの経済状況のまま、アジアの中でもどんどん停滞していってしまうのかを考えることができそうです。

 

私事ですが、10月末に日本語教育能力検定試験

の本番を迎えています。

 

最初は「日本が大好きな外国人たちにも教育ができる人間になりたい」という思いで勉強を始めました。

 

日本語教育学を学ぶ上で、文化学、心理学、教育学を色んな角度から学ぶことができています。

 

今はそれを強みにたくさん知識を蓄えて「大きな社会問題に立ち向かえる人間になりたい」という気持ちで勉強しています。

 

もちろん初心も忘れません。

 

私の周りには、私が日本語教育に興味を持たせてくれた外国人の友人がたくさんいます。

 

だから、日本語教育に携わることができて本当に良かったと思っています。

 

 

私は、これからも頑張ります。

 

 

日本語教育はどこへ向かうのか(前編)~「移民」に着目して考える〜

この国にも「移民」が存在し、取り組むべき問題が存在します。

日本に限らず、近代化と経済成長の「成功」に伴って、平均寿命が延び、同時に出生率が低下した国はたくさんあります。それはまず少子高齢化という「現実」として現れ、そして若年労働者の不足という「問題」として現れました。日本も今「移民」というテーマを無視することができない根本的な理由の一つがここにあります。

 

ドナルド・トランプ保護主義的思想、イギリスのブレグジット、移民敗訴を訴える政党「AfD(ドイツのための選択肢)」の台頭を許したドイツ。「移民」はいまや先進国に普遍的な問題です。

 

西欧では、経済停滞や人々の不安を移民の存在へ投影することで、デモクラシーの中で自らの支持を集めようとする政治勢力がひとつ、またひとつと台頭してきているのも事実です。「移民」の排除はもはやニッチではないのです。排外主義的な言説はいまや「選挙で勝てる」ひとつの戦略になり始めています。

 

一方、「日本」と「移民」はどうも食い合わせが悪いです。政府は深刻な人手不足を要請している企業に外国人労働者を受け入れる体制を拡張しようとしていますが、それを「移民政策ではない」と言い続けています。

 

日系人技能実習制度、入管収容など、、日本の移民問題をめぐる現状は様々なトピックに散ってしまい、全体的に把握するのが難しくなっています。素人の私だからこそ、そして移民問題について考えたことがなかった人にでも、日本の移民問題の全体像をつかむことが必要であると思います。

 

今回このブログでは、詳細な内容はところどころ省いて、端的にわかりやすく、浅く広く説明することを試みます。

 

1、移民を受け入れる「責任」

外国人労働者を受け入れることは「小麦」や「鉄」を輸入することと同じではありません。外国人はモノではなく人間ですので、人権、労働、教育、医療、社会保障など様々な問題が直面します。

 

移民の「統合」は同化主義か多文化主義かで語られることが多いです。外国人の子供を既存の社会に合わせる教育をするのか、一人ひとりの個性に合わせた教育をするのかという対比にも似ています。どちらの道を選ぶかは、日本に選択肢があるのです。また、どちらにしろ、社会がそのために必要なコストを払うということは間違いないです。

 

「成功例」としてひとつ挙げると、多文化主義を掲げ、国を作り上げたのは今日のオーストラリアです。オーストラリアは1970年代前半まで白豪主義のもと、同化政策を行っていました。国の政策が追い打ちをかけるように、イギリスからだけでなくアジア、インドから大量の入植者がやってきて、互いに文化の違いからコミュニケーションの面ですれ違いが起き、またその人々も現地の白人に差別されていました。また、先住民のアボリジニーは強引に土地を奪われ、奥地に追いやられ貧困生活を強いられました。

 

「このままでは国が滅びてしまう」という危機感を感じた国民が政府に働きかけ、1975年に「人種差別禁止法」が成立されました。これを皮切りに、オーストラリアは移民についても熟練労働者、ホワイトカラー、技術者の養成に重点を置いた政策に方向転換し、「国の強化と繁栄には移民を受け入れる責任をもつ」という理念を掲げ、移民が国づくりの核になりました。

 

これが、移民にとっても「社会の平等な一員」としての責任意識をはっきりさせました。これが今のオーストラリアの法律やルール、価値観、男女平等、表現の自由、民主主義などを形成する原動力となったのです。

 

反対に今日のドイツでは、同化政策がとられているといっても過言ではありません。難民や移民を寛大に受け入れる姿勢を見せておきながら、教育、医療、社会保障の面で十分な体制を置いておらず、労働に関しても単純労働をさせるだけで、移民の人権に関しては棚に上げているように思えます。これでは人種差別は解決に向かわず、格差も広がっていくばかりです。

 

日本は、政策としては「移民」を公式に受け入れることを表明していませんが、これから外国人を少子高齢化に伴う単純労働の補い」として受け入れようとしており、残念ながらこのままではドイツの二の舞になっていくでしょう。

 

「移民を受け入れること」は、国を挙げて外国人の生活を支えることであり、それだけでなく、日本人が外国人とともに暮らすことにバリアフリーな考えを持つことが重要です。異文化理解とは、差異に対する開かれた寛容な心を持ち、多様な言語や文化を持つ人々に差別や偏見なしに共生することに他ならないのです。日本は、少子高齢化がさらに深刻な問題になってくるであろう2030年ーーそして外国人労働者を受け入れざるを得ない状況になったときに、外国人を真の意味で受け入れる「覚悟」と「責任」に向き合わないといけません。

 

 

中編に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Don`t Do It ~NIKEの強い意志と人種差別問題~

「For once. Don`t Do It.(これきりでやめよう)」

 

アメリカ大手スポーツブランド、ナイキは米国の人種差別撤廃に向けて行動を促すメッセージ動画を公開しました。米黒人暴行死事件とその抗議活動への対応とみられ、注目を集めています。

https://www.youtube.com/watch?v=drcO2V2m7lw

 

*米国人暴行死事件

「25日にミネソタ州ミネアポリス(Minneapolis)で黒人男性のジョージ・フロイド(George Floyd)さんが警察の拘束下で死亡し、米国各地でこれに対する抗議運動が起きている。
 フロイドさんの死の状況については携帯電話で撮影された動画があり、白人警官1人が膝でフロイドさんの首を9分近くにわたって押さえつける姿が捉えられている。フロイドさんが動かなくなった後も警官は押さえ続け、脇には警官3人が立っていた。この動画は今や世界中に拡散している。」(c)AFP参考

 

もともとスローガンであり、多くのナイキのシャツにプリントされてある「Just Do It.」には、ナイキの哲学が込められています。

 

「Just Do It.」は1977年、死刑制度を中止していたアメリカで、自ら死刑執行を望んだ犯罪者のゲリー・ギルモア(彼は当時、死刑の廃止の潮流にあるアメリカに「死の判決」は社会に必要であると要求し、家族や死刑廃止団体の反対を最後まで振り切った)の銃殺刑執行の際、撃たれる前につぶやいた最後の一言が

Let`s Do It.(さあ、やろう)

であり、これからヒントを得て1988年に生み出したスローガンで、「ごちゃごちゃ言わないでやろうぜ!」というシンプルかつ力強いメッセージは多くのアスリートに勇気を与えてきました。

 

ナイキはこの有名なフレーズを「Don`t Do It.」に変更して、人種差別問題に真剣に向き合うように呼び掛けています。

 

今回、スローガンを変えたのは、現在のアメリカ社会を揺るがしている問題がナイキにとって見過ごすことができないものだからでしょう。

 

2018年には「Just Do It」30周年記念キャンペーンで広告の顔に、アメフトのスーパースター、コリン・キャパニックを起用し「黒人をキャンペーンの顔にするとはどういうことだ」と保守派から批判を浴び、ドナルド・トランプ大統領もツイッターで「ナイキは馬鹿だ」と揶揄。ナイキの商品が各地で燃やされたり、不買運動が起きてしまいました。

 

しかし、テニスのセリーナ・ウィリアムズNBAレブロン・ジェームズらがナイキをサポートすることを公表し、ナイキのキャンペーンはアメリカを分断する議論に発展しました。

 

ナイキのような大企業が政治問題や人種問題に足を踏み入れることには大きなリスクを伴います。

 

しかし今回、アメリカを変えるためにその大きな一歩を踏み出す姿勢を公表したのです。また、ジョーダンブランドも黒人差別撤廃運動に協力することを表明。マイケル・ジョーダン氏も1億ドルを寄付したことを明らかにしました。

 

この動きに、今回はナイキの最大のライバル会社であるアディダスも賛同し、コメントを出しています。

 

「Together is how we move forward. Together is how we make change.」

(力を合わせて、前に進んでいく。力を合わせて、世の中を変えていく。)

 

ナイキの「もう、やめよう」による、400年続く人種差別歴史のあるアメリカ社会に終止符を打つという大きな決意表明は、今後もスポーツ界のみならず、多くの場所で様々な影響を与えることでしょう。

 

「Black Lives Matter」

(黒人の命は大切だ)

 

*日本語訳は格助詞「は」ではなく「も」、「こそ」など様々だが、今回は「は」を起用

 

https://youtu.be/JvoGUFd9KB8

 

これはアメリカの歴史に強く刻み込まれる1ページになるでしょう。私たちはこの「歴史的転機」の真っ只中にいることも間違いないでしょう。少なくとも、11月の大統領選には大きな影響が出るでしょう。(前副大統領バイデンがトランプと対峙するだろうが、バイデンは協調思考すぎて何も変革が起きないのではないかと危惧されている面もある。)1863年リンカーンによる奴隷解放宣言や1960年代の公民権運動、公民権法の成立、そして2014年に黒人初の大統領バラク・オバマの誕生。しかし、黒人の権利は、根本的な偏見がはびこっている状態がずっと続いてきました。それがその他様々な要因とねじりあい、ドナルド・トランプ大統領を生み出したのは事実です。

 

あるジャーナリストが今回の暴行事件を受け、街で黒人にインタビューするときは「あなたは警官に銃を向けられたことがありますか」ではなく、「あなたが警官に銃を向けられたのは何歳のときでしたか」と質問するそうです。そして、多くの人が「~歳のころ」と普通に答えるそうです。日本人の感覚からしたらあり得ないですよね。

 

(また、黒人は10代になると経験的に「黒人としての人との接し方」を覚えてくるそうです。「白人と道ですれ違う時は怖がらせないようにする」{すれ違った人と会話するときは「自分が社会的に大丈夫な人」と相手に感じてもらうために会話の中にさりげなくである自分が大学生であることを入れ込む}、「夜コンビニに行くときは危ない人ではないことを察してもらうために口笛を吹きながら歩く」など、偏見から生まれる黒人としての「自分」を思春期、青年期に形成するそうです。)

 

確かにすべての警察、すべての人が黒人に対して偏見を持っているわけではありません。しかしこの社会組織の構造に変革がないと、中に潜むバッドアップルは取り除くことができないでしょう。

 

2週間が経過するこの運動において、民衆は具体的な要求を提示しています。

 

「Defand The Police

 

これは「警察予算の打ち切りを」と日本語では訳していますが、要するに「警察に割り当てられる莫大な国家予算(日本の約40倍と言われている)の削減をして、地域社会が必要としているリソースに資金を投じろ」という解釈ができます。黒人差別から連鎖して生まれている格差社会を広げないでほしいという必死な思いが具体性を持って主張されています。

 

果たしてこの運動はどこに終着するのでしょうか。

また、人種差別問題は黒人だけではありません。いわゆる、Black Brown やヒスパニック、アジア系、先住民など、多くの人種が北米で共生しています。また、2040年にはアメリカで黒人の数が白人を上回るという統計予測も出ています。

 

少なくとも、私たちは現在アメリカで起きていることを把握して、人種差別問題の本質について考えるべきではないかと思います。日本のテレビでは視聴者にインパクトを与えるためだけに一部暴徒化したものによる店舗襲撃にフォーカスしているところもあります。断片的に伝えるにしても、伝え方が少しずれているところが初めはありました。

本質を自分で調べるようになると、今まで見えていなかった世界が見えることでしょう。私も学び続けたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

良妻賢母はロールモデルか

世界最大のビジネス特化型ソーシャルネットワークサービスのリンクトインは、世界22か国を対象とした仕事で成功する自信に関する調査を行いました。

日本は男女合わせた総合で平均指標より2割も低く、全体的に自信がないということが明らかになりました。さらに日本人女性は「成功する自信」において、男性よりさらに7.5%低い結果です。最も自信がある国は、インド、インドネシア、中国という順番です。

 

他国では学歴や所得の高さに比例して相対的な自信も高まりますが、日本ではそれでも低い位置にあります。

 

なぜ日本人女性の「自信」は他国と比べて圧倒的に低いのでしょうか。

 

これには、日本人は他国と比べて比較的謙虚なので、自信があることをあまり表に出さないという文化的背景もありますが、経済的背景もあります。調査が行われた時期はちょうど日本で消費税増税が施行された時期でもあり、またイギリスのEU離脱など、国際的にも先行き不透明な経済に対する不安も自信のなさにつながっていると考えます。

 

女性についていえば、日本では「完璧」を目指す女性が少なくありません。完璧な社員、完璧な妻、完璧な母親など、、、女性が置かれている環境自体が失敗を許さないところもあります。ある分野で第一線で働く女性が「女性初の~」という立ち位置にされてしまうことで、周りのプレッシャーを執拗に受けてしまうこともあります。

そうすると、どんなに学歴や収入が高くても、常に自信がない状態が続いてしまいます。

 

では、今の働き方改革により会社の雰囲気が変わるだけで、女性は自信をもって社会で活躍しやすくなるのでしょうか。

 

女性の活躍を阻害しているものはなにか?の調査結果が下の図です。

 

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確かに会社の雰囲気や社会保障制度の不十分さのような、働き方が女性の社会進出を妨げている部分も大きいです。しかし、この調査結果にもあるように、

「パートナーの協力不足」

が7割強と、ほかの項目より高いことが分かります。

なぜ、夫は家事に協力しないのでしょうか。

 

これは昔からの、父親が経済的に家計を支える「一家の大黒柱」という風潮がまだ残っているからかもしれません。

 

しかし現代の環境で、それは家事に協力しない理由にして良いのでしょうか。

 

妻も働いている場合でも夫の方が「経済的に家計を支えている」という理由で仕事に優位性を感じ、コロナの影響で在宅勤務が長期になってくると、家事をせずにすぐに仕事に逃げたり、「昼ご飯が出てくるのが当たり前」のようなスタンスでいる夫も、どうやら少なくないそうです。

 

これでは夫婦間でストレスがたまる一方ですね。

 

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上のグラフは子どもが生まれても妻は働くべきか」という調査の結果です。ここ10年ほどで女性の社会進出の場が多くなり、昔に比べると女性が産休や育休ができるような仕組みが少しずつ整っていることからか、2008年から2018年で、こどもがいても「働くべき」という意見がグンと伸びていることが分かります。また、夫側のyesも常に妻を上回っていることが見てわかります。

 

しかし、コロナ自粛期間中、働く母の6割が罪悪感を持っているという別の調査結果もあります。こどもに対して納得のいく世話ができていないという回答が多いそうです。学校が長期間休校になることで、こどもが自宅学習をしないといけない時間が非常に多くなり、今までは学校や塾に丸投げしていた「親による学習支援」に向き合わないといけなくなりました。家事もしながらこどもの学習にも向き合わないといけない状況ですが、十分に時間が取れていないという現実を、この調査結果が表しているのでしょう。

 

では、次に妻と夫の家事時間の差について、調査結果を見てみましょう。

 

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このグラフを見れば一目瞭然、妻のほうが圧倒的に家事に時間を費やしています。

休日でも夫の約5倍、平日に至っては、7倍以上の差があります。コロナ自粛期間でさらに、昼間に子供がいる家庭を見ないといけなくなった分、母親のワークライフバランスは崩れる一方だと考えます。

 

果たして、良妻賢母は女性のロールモデルなのでしょうか。

 

良妻賢母(りょうさいけんぼ)

「女子の本来の任務は家を整え、子を産み、子を育てるにあるとする思想に基づいた婦人の理想像をあらわした語。つまり、良き妻であり賢い母であることが婦人の理想である。」(ブリタニカ国際大百科事典参照)

 

これは、第二次世界大戦中までの女子教育の基本理念でした。確かに、昔と今では女性の社会進出度合いが全く違います。しかし、いまだこの概念は一定数はびこっているのではないかと思われます。逆に「良夫賢父」という四字熟語が存在しないことから、この言葉がイデオロギー化していることが分かります。事実、男性で家事にも育児にも全力を注いでいる人に対して称賛する文化があるということは、そうでない人が大多数いるからではないでしょうか。私もカナダでホームステイをしたり、多くの外国人と関わってきていろんな家庭を見たことがありますが、正直、こんな国は珍しいと思います。

 

こんなに大変な時期だからこそ、夫はもう一度家庭を見直さないといけないと思います。

 

「夫婦両方が、最愛のパートナーのために、仕事・家事を兼務し、楽しく暮らす」

 

これが「女性の」ではなく、夫婦のロールモデルなのではないでしょうか。

 

 

 

また、ここで教育面にも少し首を突っ込みたいと思います。

 

コロナ自粛期間が終わってしまうと、また、勉強の中心は家庭から学校・塾へ戻ってしまうと思います。確かに家庭では、いっぱいいっぱいになりながらこどもの勉強の様子をいつも以上に見ていたのではないかと思います。しかしその反面、学校の先生がどのような学習指導、支援をしているかも間近に見ることができたのではないかと思われます。これは教師の力量を見抜く大きな機会であったと思います。事実教育現場では、コロナ自粛期間中ICT教育に、力がなくても試行錯誤して頑張ろうとしている若い先生方も多くおられました。しかし「現場の教員がICT教育をやりたいといっても潰してきた管理職や現場の大御所先生(ただの現代の教育の波に乗れていない、昔ながらの教育を大切にしている人)たちがいた」のも事実です。

 

そういった人たちを学校現場からではなく、各児童生徒の親が摘発し、そういった学校に(教育に)提言することができるチャンスなのではないでしょうか。

 

いままで先生任せで受動的だった教育も、各家庭からプレッシャーをかければよい教育環境が生まれると思います。面白そうですね。

 

 

今回このテーマについて考えてみようと思った理由は、私もコロナ自粛期間で実家生活をする中で、いままで素通りしていた家庭をこども視点で振り返り、反省したからです。「実家生だからご飯は心配ない」「洗濯物は親に任せていい」などと考えていた自分が恥ずかしくなりました。家事について考えた時にこの「良妻賢母」という言葉に出会い、色々調べるなかで、自分も母親に甘えてばっかりではなく、ちゃんと親孝行しなくちゃな、と強く感じました。そしていつかパートナーができたら、夫婦で楽しい家庭を作りたい気持ちで、この記事を書きました。この記事が、読んでくれた人の「家事」そして「夫婦」について考えるきっかけになってくれたら幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

教科書が読めないこどもたちと日本のオンライン教育(後編)

COVID-19が世界中で猛威を振るう中、日本で全国的に緊急事態宣言が出され、全国の小中高、大学は2、3か月の休校を強いられました。

 

自治体の学校では遠隔でのオンラインでのリモート授業の実施が、都道府県、地域別の教育体制の格差がある中、推奨されました。

 

熊本県熊本市では4年前の震災の教訓もあり、小学校では各家庭のWiFi環境の調査、電子タブレットの貸し出しがスムーズに行われ、リモート授業実施率が他県よりだいぶ高い状況です。

一方他県では、タブレット端末によるオンライン授業を実施することができず、週一で学校にプリントを取りに来て、自宅で個人学習するしかないという状況になっているところも珍しくないそうです。この現象はやはり、主に非三大都市圏(三大都市圏である”東京、大阪、名古屋を取り巻く都市”を除く市町村)に多くみられるそうです。

 

熊本を例に、Wifi環境の調査や家庭状況を素早く把握している地域はこの教育のオンライン化の勢いに乗ることができていると思われます。

 

教育環境(大学進学思考がある家庭はどのくらいか、学校教育以外のシステムである塾や学習支援が豊富であるかどうかなど)で地域格差がもともとあったのに、さらに傷を広げんばかりにオンライン教育の波が押し寄せてきて、その波に乗り遅れた地域は授業が進まない状況です。義務教育の土台となる教育機会の「平等」が脅かされています。

 

ここで話を読解力に戻します。

前編でも述べたように、「貧困であるほど読解力が低い」ことは統計的に明らかになっています。

 

これについて私は、両親が両親大卒層か両親非大卒層で影響があると思います。詳しくはまた別の記事で書こうと思っていますが(今回は、教育格差があることを強調したいため親片方大卒層を抜いたデータを元にしている。また、両親大卒層とそうでない類では統計上「教育意識に差がある」という調査結果をもとに述べる。)、簡単に言うと

 

両親大卒層か両親非大卒層でこどもへの大学進学期待に大きな差があり、親による大学進学を見据えた教育選択や、こどもが、技能・知識・経験である「身体化された文化資本」を獲得できる機会がどれだけあるかによって、読解力の強さに影響が出るのではないか、という考えです。

 

前編で、調査により学習機会や読書週間、スマートフォンの使用率の一つひとつが読解力に直接関与しているわけではないと述べました。

しかし、親の階層による教育によって世代を超えた学歴再生産は高い確率で存在します。また、両親大卒層か両親非大卒層かによって収入格差があることは明らかです。それによって、早い時期からの自分のこどもに対する大学進学期待に差が出て、こどもの学習意欲が湧くような様々な文化資本(例えば、海外旅行による異文化体験や博物館訪問や観劇、家族による文化的な会話など)を与えていたかそうでないかによって読解力に差が出るのではないかと思われます。

 

つまり、家庭によって文化資本総量に差があり、文化資本と学力などの教育成果は関係している。教育意欲が高い家庭のこどもは、成長する過程で学習意欲も備わらせることができ、そういった環境下でこどもは読解力が自然と身につくのではないかということです。

 

そして、これによって起きる問題は、両親大卒者層は都市三大圏に集中する現状があるということです。逆に言うと、非三大都市圏は両親非大卒層の割合が高くなるということになります。

 

その地域の、親の大卒割合によって文化的雰囲気が異なり、それが教育意識の高低の基盤となっています。教育熱の高い地域に住む子供たちは、周囲の大人から高い教育を受けることがいいことであるというメッセージを意識的、無意識的に受けながら育つことになります。

 

もちろん、様々な文化があることは良いことです。ただ、現在の社会制度の中で「成功」するのに役立つ「文化」とそうでないものがあるのは確かです。大卒割合によって近隣「文化」が異なることは教育格差にとって大きな意味を与えます。

 

教育意識の近隣間格差は、文部科学省が学習指導要領や財政支援によって公立小中学校標準化し、日本全国どこでも同じ教育を提供しようとしても、どんな近隣にあるかで、その中身が変わってしまうことを意味します。

 

教育の地域格差がある中、オンライン教育をWiFi環境、タブレット使用率だけ把握して導入してしまうのはとても危険です。

 

確かに、教育意識が高い家庭で育てられ、机に向かうことに慣れているこども、そしてそのようなこどもがたくさんいる環境では、自分で勝手にタブレットでの学習を進めていく子が多いでしょう。そこまで勉強に意欲がない子でも、まわりに教育意識の高い家庭の友達に囲まれていたら、自然と勉強に向き合うこともあるでしょう。

 

しかしそうでない地域、学級の中で両親非大卒の割合が高いところは、こどもに対する大学進学期待が比較的低いため教育意識も低く、義務教育をちゃんと終了してくれればよいという家庭の割合も高くなるため、周りの環境を含めたこどもの学習意欲もそれに応じたものとなり、タブレット端末での学習をスムーズに実施するだけでもかなりの時間を要し、皆が意欲的に学習するかといわれるとそうでない可能性も十分にあり得ます。

 

事実、熊本県の中学校を例に挙げると、市内の高校進学率が100%の公立学校では、オンライン学習導入後、学生のタブレット端末での学習率は100%である一方、同じ市内の公立中学校では同じようにオンライン学習を実施しても、生徒の出席率、学習率は70%未満の学級も存在するそうです。この残りの30%は、家庭の教育環境、周りの友達の低学習意欲に流されている子どもが大多数なのではないでしょうか。

 

これだと、読解力はおろか、基礎的学力にも同じ義務教育の場で差が出てきてしまいかねないです。

 

現場の教員の方々は、こどもの学習意欲、そして読解力向上のために、日々真剣に授業づくりをしてくださっています。現場で戦っている方々がたくさんいてくれるおかげで、データ上では見えない成果もたくさんあることでしょう。

 

しかし、その頑張りで生徒の学習環境を支えることができないほど格差は広がっています。やはり政策等で、国が生徒の学習と教師を支えてあげるシステム作りが必要です。

 

経済界には「小学生のころから英語を」「中学高校でコンピュータプログラミングを」などと、主張されている方々が多くおられますが、現場を知らないから、そのようなことが簡単に言えるのではないかと思います。

 

多くの人が成人するまでに教科書を正確に理解する読解力を獲得していない、、この状況を何とかしなければ、AIと共存せざるを得ないこれからの社会に、明るい未来予想図を描くことはできないです。それは、個人にとっても、社会にとっても同じです。

 

そのためにも、オンライン教育は文部科学省や各都道府県の教育委員会の強力なバックアップが必要です。決して現場の教員に丸投げさせてはいけません。ただのドリル学習を遠隔でさせる媒体にするのではなく、こどもの表現力、学習意欲を掻き立てるシステム作り、そして各々が持つ「個」を引き立たせ、読解力を伸ばすのにも役経つ武器にするべきです。

 

オンライン教育は世界的に今実施されていますが、日本はかなり出遅れています。オンラインの強みを活かした教育は、バックアップを整えたら必ず成果が出ると思います。日本もいまこそ教育に力を注ぐべきです。

 

そしてオンラインでの体制が整えば、次のステップである「対面とオンラインを兼ね備えた教育」は、必ず良い化学反応を起こすと思います。そのためにも、少しでも多くの人が日本の教育について考え直し、声を挙げることが大切です。国が動くスピードより、家庭が「我が子のために」動くスピードの方が断然早いからです。「卓上の教育は学校の先生に任せておけばいい」という時代はもうとっくの前に終わりました。

 

これから、AIに淘汰される企業数の増加はさらに加速していくでしょう。

 

AIに代替えされない人間になるための重要なカギは、これからの教育が握っています。

 

 

 

 

教科書が読めないこどもたちと日本のオンライン教育(前編)

「こどもの3分の1は簡単な文章が読めない」

 

これ、本当だと思いますか。

 

近年、AIテクノロジーの進歩が著しく、身近なところでは、自動運転や無人コンビニが実現に近づき、その他ディープラーニング強化学習といった技術向上による様々なAIに関する記事が見受けられます。

 

さてそんな中、最近読んだ本のなかで興味をひかれたのが「東ロボ君」の物語です。国立情報学研究所所長、簡単に言うとAI技術の国内最先端の研究をしている研究所のトップである、新井紀子さんが始めた人工知能プロジェクト「ロボットは東大に入れるのか」がテーマです。

 

2011年に始まり、10年計画で進められたこのプロジェクト。

最初は、センター模試で900点満点中387点。

全受験者の平均点を大きく下回る結果でした。

 

それから、東ロボ君は年々たくさんの成長を重ね、現在では大都市圏の人気私立大学、いわゆるGMARCH(学習院大学明治大学青山学院大学立教大学中央大学、法政大学)、関関同立(関西大学関西学院大学同志社大学立命館大学)の一部の学部学科には合格するレベル。

 

東大記述模試では、数学では6問中4問を完答し偏差値76.2と、数学に関しては上位1%に入るほどに。拍手喝采です。

 

東ロボ君に弱点はないのか、、

 

実はあります。

 

それは、国語と英語に関しては、ある一定のラインを超えると全く手が出せなくなり、思考停止となることです。

 

そう、ロボットには読解力がないのです。

 

AI技術が発展していく中で

「シンギュラリティは来る」

という誤解が生まれています。

 

シンギュラリティとは「AIが人間の能力を超える」という意味です。

 

しかし、AIは技術的特異点を得るだけであり、人間の思考力を得ることはできません。AIは腐ってもコンピューターであり、論理、確率、統計の分野で優れているだけなのです。(それだけでも、現代科学の進歩には欠かせないAIは現時点でも様々な分野で成果を上げており、これからも多くの偉業を成し遂げるでしょう。)

 

ここで、この本の著者が声をあげて言っていることは、読解力がヒトより劣っているAIでもMARCHレベルであるということです。

 

「AI技術の向上により、今の仕事の多くはAIに奪われる」

という言葉を最近耳にすると思います。

これは論理、確率、統計で解決できる仕事は、ほとんどAIのモノになる(代替えされていく)ということです。

 

つまり逆に言うと、人間に必要な力は「基礎的読解力」であるといえます。この文章を読んでいるほとんどの人は、基礎的読解力はあって当たり前だと思うかもしれませんが、ここで筆者は驚愕のデータを紹介します。

全国2万5千人の中高生に向けた、全国読解力調査の結果

 

学生の3分の1が問題の意味が分かっていないという現実でした。

 

 

例題として一問載せておくと

 

「次の文を読みなさい」

仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカオセアニアに、イスラム教は北アフリカ西アジア中央アジア、東南アジアに主に広がっている。

 

この文脈において、以下の文中の空欄に当てはまる最も適切なものを選択肢の中から一つ選びなさい。

 

オセアニアに広がっているのは(    )である。

 

1、ヒンドゥー教 2、キリスト教 3、イスラム教 4、仏教

 

 答えは当然、2のキリスト教です。

この問題の正答率は、中学生62%、高校生74%だそうです。この問題に回答した全校生徒745人の高等学校は、進学率ほぼ100%の進学校です。

 

「生徒が不真面目に問題を解いたのでは?」

というかもしれませんが、ヒンドゥー教を回答した生徒は非常に少ないことからそうではないことが予想されます。

また、これはコンピューターを使って行われたテストなので、やる気がある受験者とそうでない受験者は、まさに機械学習のような統計手法により見分けることができるそうです。選択肢の選び方や、回答速度などにより、やる気がなかったと思われる受験者を抜いたデータです。

 

因みに、国語の苦手な東ロボ君はこの問題に難なく正解しました。

 

こんな簡単な問題文も読めない子供が、AIにはできない仕事が務められると思いますか?

 

というか、まず「教科書に書いてあること」も本当に理解できているのでしょうか。

 

「基礎的読解力がないよりあるほうがいいと思うけど、ないことはそんなに大騒ぎすることなのか」という意見ももしかしたらあるかもしれませんが、そんなに甘い考えだとだめです。

 

「基礎的読解力が低いと、偏差値の高い高校に入れない」という相関関係は統計によりデータとして存在します。

 

また、読解力がある子供は、日ごろ勉強なんかしなくても教科書を読めば「わかる」のですから、あとの指導はさぞラクでしょう。

たまに同じクラスにいませんでしたか?授業中寝てばっかなのにテストでいい点をとるクラスメイトは。その人は教科書を1回読むだけで内容が頭に入っているのです。これは確かに記憶力も関係しますが、読解力が優れているという要因がとても大きいと推測します。

読解力がないこどもは教科書を読むのにも時間を要します。授業についていくだけでも精一杯で、本当は内容なんか理解できていないのかもしれません。

 

では、どうしたら読解力は上がるのでしょうか。

 

これは、必ずしも「本を読むこと」で上がるわけではないそうです。また、学習時間量や習い事、性格、性別、スマートフォンの使用率、その他直接な相関関係がみられるものはないそうです。

 

えーーーーーーー

 

と思うかもしれませんが、統計上ひとつだけ分かっていることがあります。

「就学補助率が高い学校ほど、読解能力値の平均が低い」ことです。

 

 

つまり

「貧困であるほど読解力にマイナスの影響を与える」

ということです。

 

格差と読解力には関係がありそうですね。

 

後半に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生は一度きりなんだからネ~

「人生は一度きりなんだからネ~、若いうちに何でもチャレンジしたほうがいいヨ~」

「そうですよね~」

 

ある日のバイト休憩中、一緒に働くフィリピン人のパート主婦さんとの何気ない会話の中で言われた言葉が、なんとなく頭の中に残っていた。

 

 

俺は教育を通じて人と接する仕事に就きたいと、高校生あたりから考えていた。親が教師でもあり、その仕事が身近に感じていたからかもしれない。部活動でキャプテンをしてきて、スポーツを通じて「教える」ことの楽しさを肌感覚で感じることができたからかもしれない。

 

まーいろいろあって、大学は教育学部に行こうと決意できた。

 

大学生活は、バドミントン尽くしで、楽しくて仕方がない。大学の部活動を通して色々な人に出会い、多くの経験の中で技術上達だけじゃない、大切なモノを学ぶことができている。

 

本当に大学で部活動を続けてよかったと思っている。

 

そんな部活動中心の学生生活の中で、学校外で俺が関心を寄せていたことが、アルバイト先での外国人との交流だった。

 

「外国から日本に来て勉強している留学生は、たぶんその国のお金持ちばかり!」

という自分の最初のイメージとは異なり、少なからず自分の周りにいる人達は全員、必死に日本語を学習したり、大学の勉強をしながら空いた時間で日本での生活費を稼ぐためにバイトも一生懸命頑張っている人たちだった。将来の夢を聞くと「自分の専門分野を極めて、母国、又は憧れの日本で活躍したい」と言う外国人がほとんどだった。そんな人たちと日々交流するのが楽しかった。(留学や、アルバイト先で出会ったたくさんの外国人の友達との交流は今もFacebookで続けている。)

 

「こんなに日本に憧れて勉強を頑張っている外国人を支える仕事に就きたい!」

と思うようになり、そこで日本語教師という存在を知り、魅力を感じていた。

 

しかし、「よーし、日本語教師に向けて一直線だ!」とはならず。というのも、日本語教師という職業自体の不安定さが目立っているからである。

 

非正規で雇われることがほとんどで、給料もとても安く、国際情勢の影響をとても受けやすいといった、マイナス面にどうしても目がいってしまい、俺の進路は本当にこれでいいんかな、、とモヤモヤした気持ちで学生生活を送っていた。

 

 

 

フィリピン人のパート主婦さんとの会話の数日後の夜

 

親友から急に電話がかかってきた。

 

 

 

中学の頃の友達が自宅で急死した知らせだった。

 

 

 

頭の中が真っ白になったまま、通夜に出席し、横で親友が泣き崩れているときも、まだ現実を

受け止めきれていなかった。

 

自分の夢を追いかけて、希望した職について一人前になって、彼女とも、ついこの前入籍をしたばっかで、幸せ真っ只中のあいつが、なんで、、

 

なんで、夢に向かって頑張っている人がこんなかたちで世を去らなくちゃならないんだ、、

 

それと同時に「自分はどうするのか」という問いが、頭の奥底から浮かんできた。

 

そしたら、大学後の進路なんかでモヤモヤしているのが恥ずかしくなった。

 

本当に自分が好きなことに価値を見出してそれにコミットするのが、その人なりの人生の彩りであって、周りに流されるものじゃない。

 

こんな単純で、尊敬できる人が言っていたり自己啓発系YouTuberが言ってそうなこと、何回も聞いてきたことの本質が分かった気がした。

 

 

日本語教師になりたい。語学教育を通じてたくさんの外国人に、日本の魅力を伝えたい。

 

 

これがおれの今の気持ち

 

 

これを読んでくれた方に伝えたいことがある。

 

不安になんかならなくていい

後悔なんかしなくていい

周りなんか気にしなくていい

 

ただ「いま」を自分らしく生きること。

 

自分の人生は自分でアートしていくものだ。

前を向いて、たくさんチャレンジしよう。

 

だって、人生は一度きりなんだから。