「世界中を旅する教育者」を目指すクマのブログ

大好きな教育を多角的な視野で俯瞰し、日々関心を持ったことをブログにあげていきます。

日本語教育はどこへ向かうのか(前編)~「移民」に着目して考える〜

この国にも「移民」が存在し、取り組むべき問題が存在します。

日本に限らず、近代化と経済成長の「成功」に伴って、平均寿命が延び、同時に出生率が低下した国はたくさんあります。それはまず少子高齢化という「現実」として現れ、そして若年労働者の不足という「問題」として現れました。日本も今「移民」というテーマを無視することができない根本的な理由の一つがここにあります。

 

ドナルド・トランプ保護主義的思想、イギリスのブレグジット、移民敗訴を訴える政党「AfD(ドイツのための選択肢)」の台頭を許したドイツ。「移民」はいまや先進国に普遍的な問題です。

 

西欧では、経済停滞や人々の不安を移民の存在へ投影することで、デモクラシーの中で自らの支持を集めようとする政治勢力がひとつ、またひとつと台頭してきているのも事実です。「移民」の排除はもはやニッチではないのです。排外主義的な言説はいまや「選挙で勝てる」ひとつの戦略になり始めています。

 

一方、「日本」と「移民」はどうも食い合わせが悪いです。政府は深刻な人手不足を要請している企業に外国人労働者を受け入れる体制を拡張しようとしていますが、それを「移民政策ではない」と言い続けています。

 

日系人技能実習制度、入管収容など、、日本の移民問題をめぐる現状は様々なトピックに散ってしまい、全体的に把握するのが難しくなっています。素人の私だからこそ、そして移民問題について考えたことがなかった人にでも、日本の移民問題の全体像をつかむことが必要であると思います。

 

今回このブログでは、詳細な内容はところどころ省いて、端的にわかりやすく、浅く広く説明することを試みます。

 

1、移民を受け入れる「責任」

外国人労働者を受け入れることは「小麦」や「鉄」を輸入することと同じではありません。外国人はモノではなく人間ですので、人権、労働、教育、医療、社会保障など様々な問題が直面します。

 

移民の「統合」は同化主義か多文化主義かで語られることが多いです。外国人の子供を既存の社会に合わせる教育をするのか、一人ひとりの個性に合わせた教育をするのかという対比にも似ています。どちらの道を選ぶかは、日本に選択肢があるのです。また、どちらにしろ、社会がそのために必要なコストを払うということは間違いないです。

 

「成功例」としてひとつ挙げると、多文化主義を掲げ、国を作り上げたのは今日のオーストラリアです。オーストラリアは1970年代前半まで白豪主義のもと、同化政策を行っていました。国の政策が追い打ちをかけるように、イギリスからだけでなくアジア、インドから大量の入植者がやってきて、互いに文化の違いからコミュニケーションの面ですれ違いが起き、またその人々も現地の白人に差別されていました。また、先住民のアボリジニーは強引に土地を奪われ、奥地に追いやられ貧困生活を強いられました。

 

「このままでは国が滅びてしまう」という危機感を感じた国民が政府に働きかけ、1975年に「人種差別禁止法」が成立されました。これを皮切りに、オーストラリアは移民についても熟練労働者、ホワイトカラー、技術者の養成に重点を置いた政策に方向転換し、「国の強化と繁栄には移民を受け入れる責任をもつ」という理念を掲げ、移民が国づくりの核になりました。

 

これが、移民にとっても「社会の平等な一員」としての責任意識をはっきりさせました。これが今のオーストラリアの法律やルール、価値観、男女平等、表現の自由、民主主義などを形成する原動力となったのです。

 

反対に今日のドイツでは、同化政策がとられているといっても過言ではありません。難民や移民を寛大に受け入れる姿勢を見せておきながら、教育、医療、社会保障の面で十分な体制を置いておらず、労働に関しても単純労働をさせるだけで、移民の人権に関しては棚に上げているように思えます。これでは人種差別は解決に向かわず、格差も広がっていくばかりです。

 

日本は、政策としては「移民」を公式に受け入れることを表明していませんが、これから外国人を少子高齢化に伴う単純労働の補い」として受け入れようとしており、残念ながらこのままではドイツの二の舞になっていくでしょう。

 

「移民を受け入れること」は、国を挙げて外国人の生活を支えることであり、それだけでなく、日本人が外国人とともに暮らすことにバリアフリーな考えを持つことが重要です。異文化理解とは、差異に対する開かれた寛容な心を持ち、多様な言語や文化を持つ人々に差別や偏見なしに共生することに他ならないのです。日本は、少子高齢化がさらに深刻な問題になってくるであろう2030年ーーそして外国人労働者を受け入れざるを得ない状況になったときに、外国人を真の意味で受け入れる「覚悟」と「責任」に向き合わないといけません。

 

 

中編に続きます。